狭き門(努力を台無しにしない道)

吃音が、言葉を話そうとして、口にしようとする音に注意が向かうこと、口にしようとする音に意識が固定することが原因で生じる症状だとすると、吃音症状が徐々に改善(軽減)していくためには、話し方や口から出る言葉(音)に、不必要な注意、発話(思考)の邪魔をするような注意が向かわなくなる状態、すなわち、どもっても、どもったこと、どもった部分を気に留めない本心、どもらずにしゃべっても、そのことに特別な喜びを感じたり、大きな価値を置かない心、(思考の自然な展開による正常な話し方に被さり、それを遮って発話の邪魔をする、発話[音]をコントロールしようとする意識[話すこと(=考えること)を、「意識して行う発話行為」にしたり、身構えるという意味で、一大イベントに変えてしまう意識]が鳴りを潜め、)不意にどもっても、どもった部分がそのまま意識の彼方に流れ去り、次に話す(べきことを考える)ことにスムーズに入っていける自然な意識の切り替わりが、徐々に出来上がっていくことかもしれません。人生のどこかで、その道を通り、その門をくぐる必要があるのかもしれません。

また、スピーチ・シャドーイングや「認知行動療法を用いたグループ訓練」(抄録集 56ページ)の「考えながら話す」の箇所にある2つの訓練法、マインドフルネス瞑想訓練のような、言葉を話すときの、注意の向きを改善するための訓練、関心の中身を改善するための訓練は、最終的には、(どもる、どもらないを問題にし、発話と発話の結果に注目する)吃音改善とは切り離して、(思考とコミュニケーションへの)集中力と注意のコントロールを身に着ける訓練として、訓練のための訓練、日課としての訓練として(言葉を話すことを伴う訓練については、注意の向きと関心の中身を改善してくれるはずの訓練が逆に自分の言葉を気にする訓練にならないように、ちゃんとしゃべれているか、どもらずにしゃべれているかといった注意と関心の外で)、取り組むべきことなのかもしれません。そこから先のことは、人間が持つ自然治癒力の領域かもしれません。

意識的なコントロールによらない吃音(発話)の自然な改善は、どもる、どもらないを越えたところにあるのかもしれません。どもることの先に、あるのかもしれません。